【仙臺まちなかシアター解説 斎藤茂吉さんについて】

5月13日(水)19:00配信「第一高等学校思出断片 他」は、斎藤茂吉さんの随筆「第一高等学校思出断片」「三筋町界隈」の2本を構成したものです。とにかく、随筆は抜群に面白いです!読んでいて爆笑してしまうものも多々あります。出演者の野々下孝さんとは、これは他の作品もシリーズにしてぜひやりましょう!と話しています。「仙臺まちなかシアター」の第2クール、第3クールで実現できるといいなあ。

概要

 1882年(明治15年)、守谷伝右衛門熊次郎の三男として、山形県、現在の上山市に生まれた。
 実家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は東京・浅草で医院を開業するも跡継ぎの無かった同郷の精神科医、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になることとなった。
 上京したのは15歳の時で、途中の仙台の旅館では菓子、もなかを生まれて初めて食べ、「こんなうまいものがあるのか」と思い、夜に到着した東京・上野駅では、「こんなに明るい夜があるものだろうか」と驚いたという。 1905年斎藤家に婿養子として入籍。当時、妻となる輝子は9歳であった。
 医師となった後、31歳のときに紀一の次女・輝子と結婚して斎藤家の婿養子となった。しかしながら東京のお嬢さん育ちであった輝子は派手好きで活発な女性で、律儀な茂吉とは価値観や性格があわず、輝子の男性問題もあって、別居していたこともある。

創作活動

中学時代、短歌の世界に入り、友人たちの勧めで創作を開始する。高校時代に正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りした。
 精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学や青山脳病院院長の職に励む傍ら旺盛な創作活動を行った。また、文才に優れ、研究書やすぐれた随筆も残している。太平洋戦争中の創作活動は積極的に戦争協力していた。
 生涯に全17冊の歌集を発表し、全17,907首の歌を詠んだ。ただし、あくまでも精神科医を本来の生業とする姿勢は崩さず、「歌は業余のすさび」と称していた。

エピソード

  • かなりの食いしん坊であった。中でも鰻が大好物で、戦時中戦後の物不足の時期にも事前に購入して蓄えていた鰻の缶詰を食べていた。
  • 非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった。茂吉が風邪で寝ていた時、是非ともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て「俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。」と怒鳴りつけた。あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産のカステラを食べた茂吉は「あんまり叱るんじゃなかったな。」と反省したという。
  • 留学時代ミュンヘンでエミール・クレペリンに握手を求めて拒絶されたことを晩年まで恨みに思い、「毛唐め!」と悪口を言い続けていた。
  • 粘着性気質で、ウイーン滞在中、偶然にキスする男女を見つけ、あまりの長さに「長いなあ。実に長いなあ。」と独り言を言いながら物陰から一時間近くも覗いていた。
  • 子供のころ質素倹約を旨とした農村社会の生活をしていたので、物を大事にする傾向が強かった。妻との旅行中、ドイツの山間の駅で絵葉書を物色中に、汽車が妻を乗せたまま出発、慌てた茂吉は猛スピードで追いかけ辛うじて飛び乗った。この時もきちんと金を払って絵葉書を買ってから汽車を追いかけたという。
  •  学生時代の北杜夫(宗吉)が短歌を作って茂吉に手紙で送ると、二重丸などをつけて「父の『赤光』時代の歌に似ている。勉学の間に少し作ってみるといい。」と批評文を返信していた。だが、成績が悪いことを知ると態度が一変して「大馬鹿者!短歌などすぐやめよ!」と激しい言葉を書き連ねた手紙を書き送り、その後も北が文筆活動を続けると知ると、「文学なぞ絶対にやらせん。」と言い続けていた。