♯19「吾妻橋/心づくし」作者、永井荷風さんを紹介します!

根っからの女性大好き、で知られる永井荷風さんですが、作品の中の細やかな女性の描写はお見事!日記も大変面白い作家さんですので、いつか「仙臺まちなかシアター」でそちらのほうも取り上げたいと思っています!演じる佐々木久美子さんも、作品にぴったりの、とても魅力的な俳優さんです!

経歴

幼少期 父親である久一郎はプリンストン大学やボストン大学への留学経験を持ち内務省衛生局に勤務、後に日本郵政に天下ったというエリート。また、母親の影響で歌舞伎や邦楽に興味を持つようになる。
1894年 病を患い、一時休学。当時のことを「一時期は共に勉学に励んだ仲間達が先に行ってしまった、以前のように勉学に励めなくなってしまった」と振り返る。永井は療養中に『水滸伝』『八犬伝』『東海道中膝栗毛』の伝奇小説や江戸戯作文学に手を伸ばした。永井本人も「もしこの事がなかったら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかもしれない」と著書の中で語っている。
永井の筆名「荷風」はこの時期に出会った看護婦さんのお名前に由来する。 
1903~ 父の意向でヨーロッパ諸国を外遊。
1908年~ フランス語を学び、エミール・ゾラの影響を受け、『地獄の花』短編集『あめりか物語』『ふらんす物語』などで、作家としての地位を確立。
1910年 森鷗外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となる。華やかな教授職の一方で芸妓との交情を続けたため、私生活は必ずしも安泰でなく周囲との軋轢を繰り返した。
1912年 商家の娘と結婚させられたが、1913年に父が没して家督を継いで間もなく離縁。
1914年 新橋の芸妓・八重次(のちの藤蔭静枝)を入籍して、末弟威三郎や親戚との折り合いを悪くした。しかも八重次との生活も、翌年には早くも別居。以降妻帯することはなかった。
 1926年(47歳)銀座のカフェーに出入りする。荷風の創作の興味は旧来の芸者から新しい女給や私娼などに移り、『つゆのあとさき』、『ひかげの花』など新境地の作品を作り出す。この頃に各出版社から荷風の全集本が発売されたことにより多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、さらなる創作活動を迎える。
1945年~戦時中 戦争の深まりにつれ、新作の新刊上梓は難しくなったが、荷風は『浮沈』『勲章』『踊子』などの作品や『断腸亭日乗』の執筆を続けた。草稿は複数部筆写して知友に預け、危急に備えている。戦争の影響は容赦なく私生活に悪影響を与え、食料や燃料に事欠くようになる。
1952年 文化勲章受章

1959年 79歳で自宅内にて死亡。死の間際には誰も居らず、血を吐いて倒れていた永井を通いの家政婦が見つける、という最期であった。晩年の永井は決して孤独ではなく、体を壊した際には医者を紹介されていたり、永井に見出され脚光を浴びた谷崎潤一郎は最期まで永井の体調を気遣っていたりと、彼は確かに愛された文学者だった。
作風
初期の作品は「真実」を追求し、ドラマチックに美化した描写を否定する文学『自然主義』という手法を取った。しかし永井は次第に「美」というものに芸術性を見出すようになった。ここでいう美とはただ単に「美しい物」だけではなく、時代によっては悪しきものとして弾圧されがちな「愛」や「肉体」といったものも含まれ、『耽美主義』と呼ばれるようになる。

エピソード
①芸妓遊びが止まらなかった
慶應義塾大学文学部の主任教授の時期、その少し前に吉原に通うことを覚える。吉原はいわば『女性と遊べる場所』。永井は吉原通いを続けた結果、教授職を追われることとなったのみならず、実家からも絶縁。永井は女性が好きだった……のは間違いないが、彼の場合はただの『女好き』ではなく、そこに美を見出し、芸術に昇華させる才能があった。1937年に永井が著し、娼婦のヒロインが登場する『濹東綺譚』は彼の最高傑作とされ、何度も映画化される名作となっている。

日記が最高傑作、という声も
永井の日記『断腸亭日乗』は非常に面白くファンが多いのも頷ける仕上がりとなっている。永井自身の性格なのか、ちょっと気取った感じはあるが、決して堅苦しくはなく、むしろ毒があって面白い作品となっている。他の文学者や知識人、権力者の名前も登場する一風変わった作品。

死後の希望
永井は生前、遊女の投げ込み寺として知られていた浄閑寺に葬られたいと言っていたようで、彼の死後に42人もの人々が集まり、遊女らの「新吉原総霊塔」と向かい合わせに詩碑と筆塚が建立された。