仙臺まちなかシアター♯16「火の魚」作者の室生犀星さんを紹介します!

室生犀星と、晩年の愛猫ジイノ。後述のエピソードもぜひ
お読みください。

 冴えわたる文章表現能力で、高い評価を受けつつも、プライベートでは直情的で情に厚く、友人思いだった室生犀星。幼少期の複雑な家庭環境を背負いつつも、家族・友情を大切にして過ごす人だったそうです。ホッとするようなエピソードがいっぱいでした。

略歴年譜
1889年 小畠家の私生児として生を受ける
この年の8月1日、犀星は小畠弥左衛門吉種の私生児として生まれました。私生児であったために認知されなかった犀星は、生後ほどなくして小畠家と懇意にしていた雨宝院の住職・室生真乗と、その内縁の妻であった赤井ハツにもらわれ、照道と命名されます。
1896年 室生真乗の養子として、室生姓を名乗るようになる
育ての親である室生家との養子縁組が成立し、義父の苗字である”室生”姓を名乗ることになります。しかし「妾の子」であった事実は変わらず犀星を苛み続け、その苦しみは生涯を通じて続いたようです。
1902年 高等小学校を中退し、金沢地方裁判所に就職
この年の5月、生活苦が原因となって、通っていた長町高等小学校を中退。金沢地方裁判所の給仕として働き始めます。
1904年 新聞に俳句が掲載される
彼が詠んだ俳句が初めて新聞に掲載されます。これ以降彼は試作や短歌にも興味を持ち始めました。1906年 ”犀星”を名乗り始める
この年以降、彼は「室生犀星」のペンネームで文筆活動を行い始めます。
1910年 上京
裁判所時代の上司だった俳人・赤倉錦風を頼りにして上京します。しばらくは錦風の下で厄介になっていたようですが、やがて生活が厳しくなったことで地元へと帰郷。以後犀星は、何度か状況と帰郷を繰り返す生活を送ることになりました。
1913年 萩原朔太郎と知り合う
北原白秋が主催する『朱欒』に、犀星作の詩が連続掲載。それを見た萩原朔太郎から熱烈な手紙を受けて親交を持つことになります。初対面での印象こそ「貧乏くさい痩せ犬」(朔太郎→犀星の印象)と「鼻持ちならない気障な奴」(犀星→朔太郎の印象)と、あまり良くなかったようですが、ここで結んだ友情は、彼らの生涯を通じてのものとなりました。
1914年 人魚詩社を創立
萩原朔太郎、山村暮鳥と3人で、人魚詩社を創立します。翌年には『卓上噴水』を創刊し出版しますが、世間からの受けはあまり良くなかったようで、『卓上噴水』は3号で廃刊となっています。1916年 感情詩社を結成
萩原朔太郎と共に感情詩社を結成し、同人誌『感情』を創刊。これはそれなりの評価を得たようで、1919年まで32号を刊行。犀星の文筆家としての下地を支える同人誌となりました。
1917年 養父の死
この年の9月、養父であった真乗が死去。詳しい記録は残っていませんが、犀星が養父に大成した姿を見せることは叶いませんでした。
1918年 文筆家として本格的に活動開始
この年の1月には、『愛の詩集』を自費出版。9月には『抒情小曲集』を出版するなど、作家として本格的に活動を開始します。また、2月には浅川とみ子と結婚し、彼女は犀星の生涯唯一の妻となりました。
1919年 人気作家となる
8月、初めての小説『幼年時代』が『中央公論』に掲載。『中央公論』の編集長の目に作品が留まり犀星は執筆を依頼されるほどの人気作家として有名になります。依頼を受けた犀星は、10月に「性に眼覚める頃」、11月「或る少女の死まで」を『中央公論』に掲載。どちらの作品も高い評価を受けました。
1921年 長男の誕生と死
この年の5月に、犀星ととみ子の間に第一子が誕生。豹太郎と名付けられたその子を、夫婦はとても可愛がっていたようですが、豹太郎は翌年に突如として死去。夫婦がとても悲しんだことは想像に難くありません。
1923年 関東大震災
この年の8月に、長女である朝子が誕生。しかし時を同じくして、関東大震災が勃発します。幸運にも身辺に犠牲者が出なかった犀星は、友人である芥川龍之介らを心配し、家にあったリアカーに物資を積んで彼らの家を訪ねてまわったそうです。しかし住居は壊れてしまったようで、震災の1か月後の10月には、家族と共に金沢へ戻っています。
1927~1928年 度重なる死別
1927年に友人である芥川龍之介が突然の自殺。翌年には養母である赤井ハツが死去するなど、この2年間は犀星にとって、辛い別れが多い年となりました。事実この2年間は、犀星はあまり作品を書いていなかったようで、めっきり作品数が落ち込んでいます。
1932年 再び上京し、終の住居とする
関東大震災の災禍が一段落したこともあり、犀星は再び東京へ。大森区馬込町に新築の家を建て、そこを生涯の住居としました。ただし前年には軽井沢に別荘を買っており、常に馬込町の家で執筆を行っていたわけではありません。
1934年 詩作を辞めることを発表
『詩よ君とお別れする』を発表し、長年彼の名声を支えた詩作との訣別を宣言します。しかし彼はその後も数多くの詩を遺しているため、これはリップサービスか、もしくはどこかで気が変わったのだろうと思われます。
1935年 『あにいもうと』で文芸懇話会賞を受賞
前年に連載した『あにいもうと』で文芸懇話会賞を受賞。『あにいもうと』は翌年には映画化。この功績によって犀星は「芥川賞選考委員」にも選出。1942年までの間、選考委員として芥川賞を支えました。
1941年 『戦死』にて菊池寛賞を受賞
短編小説『戦死』にて菊池寛賞を受賞し、犀星の文壇での有名は盤石なものとなりました。この年に一度行った帰郷が、犀星が金沢の地を踏んだ最後となっており、以降犀星は部屋に犀川の写真を飾り、故郷を懐かしみながら執筆に励んだそうです。
1942年 親友との別れ
この年の5月に、親友であった萩原朔太郎が急性肺炎のため死去。彼の詩に犀星が何を思ったのかは記録されていませんが、朔太郎と犀星のエピソードを知っているだけで、この時の犀星の心中を想像することができます。
1956年 『杏っ子』を連載開始
この年の11月より、代表作の一つとされる『杏っ子』を連載開始。娘である朝子をモデルにした、半分自叙伝のような形式の作品は話題となり、翌年に第9回読売文学賞を受賞。さらに東宝で映画化される程のヒットとなりました。
1959年 妻・とみ子との別れ
10月に、最愛の妻であるとみ子が死去。犀星が悲しみに暮れたことは想像に難くありませんが、同時にこの年は『我が愛する詩人の伝記』で第13回毎日出版文化賞を受賞、『かげろふの日記遺文』で第12回野間文芸賞を受賞するなど、犀星の文学的評価が高まった年でもありました。
1960年 「室生犀星詩人賞」を創設
前年に受賞した文学賞の賞金を用いて、「室生犀星詩人賞」を創設。この賞は富岡多恵子などの詩人を輩出しましたが、残念ながら将としては定着せず、第7回をもって終了となっています。
1962年 肺ガンのため死去
前年の10月に体調を崩した犀星は、虎の門病院に入院。しかし病状が回復することはなく、この年の3月26日に帰らぬ人となりました。遺体は故郷である金沢市の野田山墓地に埋葬されたそうです。

エピソードいろいろ
①羊羹好き
犀星は「羊羹」を非常に好んでいたようで、現存するだけでも「羊羹を買ってきてくれ」という手紙が4つ、「羊羹を買って来てくれてありがとう」というお礼状が2つと、羊羹に関するものだけで6つもの手紙が残っています。中でも地元の和菓子店「森八」の羊羹を好んでいたらしく、晩年には自宅でトマトに砂糖を付けて食べながら「森八の羊羹の味がするな……」と呟いていたという、面白さと同時に哀愁も感じるエピソードを残しています。
②動物好き
特に猫を溺愛していたらしく、晩年の彼は生活がさほど豊かではなかったにもかかわらず、ミュン子、ジィノ、ツマロと名付けた猫を3匹飼っていたそうです。さらに犀星は「犬は好きじゃない」と公言しながらも、何故か鉄とゴリという2匹の犬も飼っていたと記録されています。飼い猫に対しても「火鉢が曇りやすくなって困る」と口では言いながらも、火鉢が曇るたびに嬉しそうに火鉢を拭いていたというエピソードが残っており、彼の動物好きを示すエピソードは枚挙に暇がありません。
③言語表現の妖魔
上記の言葉は、犀星と同世代の文豪・川端康成が犀星の文章表現を指して送った言葉です。”妖魔”とすら称される類稀な文章表現能力の高さは、かの芥川龍之介も羨望の眼差しを送ったほどだと伝わっています。
④少年漫画の主人公のような直情的な性格
とある出版記念会での出来事。居並ぶ参加者の中で、犀星はある光景を目にします。それは、親友である萩原朔太郎が、岡本太郎に絡まれている光景でした。その光景を見た犀星は「朔太郎が危ない!」と直感。犀星は近くにあった椅子を手にし、それを振り回しながら朔太郎を助けに向かったそうです(ちなみに岡本太郎は、別に朔太郎に喧嘩を売っていたわけではなく、完全に冤罪でした)。ちなみにこの時、同じ記念会に出席していた芥川龍之介は「いいぞ、やれ!」と犀星を煽ったあげく、後日「君はよくやった」と犀星に手紙を送る始末。椅子で殴られた岡本太郎は完全に殴られ損ですが、当時の文豪たちの仲の良さや、犀星の善良な性格が伝わるエピソードと言えるでしょう。このエピソードにはいくつかの余談があり、朔太郎の「君は何故、岡本君を椅子で殴ったんだい?」という問いに対し、犀星が「それはテーブルが重かったからだよ」と答えたというエピソードが特に有名です。