仙臺まちなかシアター♯18「寺坂吉右衛門の逃亡」作者の直木三十五さんを紹介します!

直木賞、といえばだれでも聞いたことがあると思いますが、そのもととなった直木三十五の経歴や作品は意外と知らない方も多いのではないかと思います。作家としてだけでなく、様々分野で多才だった直木三十五さんを紹介します!

本名=植村宗一。
大阪府大阪市南区内安堂寺町2丁目生まれ。父・植村惣八(古物商)、母・しづの長男。
桃園小学校、育英高等小学校、市岡中学校と進み、
一時、薬局勤務、奈良県の小学校の代用教員を務める。

経歴


1911年 早稲田大学英文科予科入学。2学期より高等師範部に転
     部するも、学費が払えず除籍。
1916年 同棲相手の仏子須磨子(のち結婚)との間に長女誕生。
1918年 トルストイ全集刊行会(のち春秋社)を創設。
1919年 4月から雑誌『主潮』を発行。その年、冬夏社を興す
    が、半年で倒産。その後、雑誌『人間』や、三上於菟吉
    と創設した元泉社の経営を手掛けるが、いずれも事業とし
    ては失敗。
1923年 関東大震災後、帰阪して、プラトン社に入社する。
     この頃から大衆小説を書き始める。映画の世界にも関
     心が深く、マキノ省三と共同で映画製作も手掛ける。
1929年~31年「由比根元大殺記」、「南国太平記」などで、
       流行作家として地位を確立。時代小説から、時局
       小説、現代小説など幅広く、大衆文芸を中心とし
       た文芸評論や随筆も数多い。
1934年  結核性脳膜炎で東大病院にて没。享年43歳。
1935年  友人の菊池寛が「直木三十五賞」を設定、現在まで続
     く。

エピソード ☆ 『直木三十五全集』に収められた小自伝より

筆名の由来──植村の植を二分して直木、この時、三十一才なり
し故、直木三十一と称す。この名にて書きたるもの、文壇時評一篇のみ。
 翌年、直木三十二。この年月評を二篇書く。
 震災にて、大阪へ戻り、プラトン社に入り「苦楽」の編輯に当る。三十三に成長して三誌に大衆物を書く。
 三十四を抜き、三十五と成り、故マキノ省三と共に、キネマ界に入り「聯合映画芸術家協会」を組織し、沢田正二郎、市川猿之助等の映画をとり、儲けたり、損をしたりし──後、月形龍之助と、マキノ智子との恋愛事件に関係し、マキノと、袂を分つ。
 キネマ界の愚劣さに愛想をつかし、上京して、文学専心となる。
 習癖──無帽、無マント、和服のみ。机によりては書けず、臥て書く習慣あり。夜半一二時頃より、朝八九時まで書き、読み、午後二三時頃起床する日多し。
 速筆にて、一時間五枚乃至十枚を書き得。最速レコード、十六枚(踊子行状記の最終二十四は、この速度にて書く)
 酒は嗜まず。野菜物を好む。煙草は、マイミクスチュアか、スリーキャッスルのマグナムに限る。但し、金がないとバットにても結構。
 飛行機好きにて、旅客中、最多回数を搭乗し、レコード保持者たり。
 パノール号ロードスターを自家用自動車として所有す。中古千五百円なりし品にて、菊池寛氏と共有の物なり。同氏と、文藝春秋社と、三者にて使用し、月経費を三分しつゝあり、円タクよりあし。
 趣味──囲碁二段に二三目。将棋八段に二枚落。麻雀無段。カッフェ、待合、旅行、競馬嫌ひなもの無し。
 資産──自動車半台分。刀剣少々。