「蛙のゴム靴」作者 宮沢賢治さんを紹介します!

昨年、「土神ときつね ふたりのケンジ」という作品でも扱わせていただいた、宮沢賢治。
短い生涯の中でたくさんの作品を残しました。エピソードや研究がとても多い作家さんです。
簡単な年譜と、多くの作品にも反映されている、アンビバレントな両面について、ご紹介します。

年譜

1896年  岩手県稗貫郡にて、質屋「宮澤商店」を営む父政次郎、母イチの長男として生まれる。
1909年  岩手県立盛岡中学校に入学、寄宿舎に入寮。
1915年  盛岡高等農林学校に首席で進学、寄宿舎「自啓寮」に入寮。
1917年  同じ学校の保阪嘉内らと同人誌『アザリア』創刊。短歌などを発表。
1918年  保阪嘉内が除籍処分。盛岡高等農林学校を卒業。徴兵検査で第二乙種合格、兵役免除。肋膜炎と診断され、土性調査終了次第、退学を希望。盛岡に帰郷。12月、 妹のトシが肺炎で東京の病院に入院、母と上京して看病する。
1919年  東京で人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。3月トシ退院、岩手に戻る。家業を手伝う。
1920年  国柱会に入信。父に改宗をせまる。
1921年  上京、国柱会本部を訪問。本郷菊坂町に下宿、働きながら多くの童話を執筆。8月、トシ病気のため帰郷。12月、稗貫農学校(後の花巻農学校)教師となる。
1922年  1月 – 雑誌『愛国婦人』12月号、1月号に『雪渡り』発表。11月27日 – トシ、病死。
1924年  詩集『春と修羅』を自費出版。童話集『注文の多い料理店』を刊行。
1926年  花巻農学校を依願退職。4月 – 花巻町下根子桜の別宅にて独居自炊。私塾「羅須地人協会を設立。12月、 上京。セロ、タイプライター、オルガン、エスペラント語を習う。
1927年  『岩手日報』夕刊で賢治の活動が紹介されるが、社会主義教育と疑われ警察の聴取を受ける。以後、羅須地人協会の集会は不定期に。
1928年  過労で倒れ、両側肺湿潤と診断される。実家に戻り療養。
1931年  体調回復し、東北砕石工場技師となる。石灰肥料の宣伝販売を担当。 商品売り込みのため上京中に発熱で倒れ、家族に遺書を書く。
     9月、 花巻に帰り、再び療養生活を送る。手帳に『雨ニモマケズ』を書く。
1932年  児童文学」第二冊に『グスコーブドリの伝記』発表。
1933年  9月21日 – 急性肺炎のため死去(享年37)。戒名「真金院三不日賢善男子」。

作風

仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。宗教的思想と自然科学の融合した独自の世界観は、世界中で評価されている。
広く作品世界を覆っているのは、作者自らの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神である。

宮沢賢治 陰と陽

陽の部分

科学への造詣  作中には動植物、鉱物、地質学など科学用語や鉱物の名称が多く登場する。大学で学んだ土壌学を農民へ還元する農業技術の指導
        員としての評価もある。
音楽への造詣  レコード収集 セロ、オルガン、エスペラント語
菜食主義生涯独身 ストイックな精神・清貧
羅須地人協会 農村文化の創造・農民芸術の実践という理想にもえる
ファッション 高価なダルマ靴 サハリン旅行のスタイル(パナマ帽に白の麻の上下の服・チェックのネクタイに赤川の靴)

陰の部分〉

体の弱さ
1902年、赤痢で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、大腸カタルを起こして胃腸が生涯弱くなった。1914年4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性鼻炎の手術を受ける。術後も熱が下がらず、発疹チフスの疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染して入院。

兵役免除
1918年、徴兵検査を受けて第二乙種合格となり、兵役免除。6月、岩手病院で肋膜炎の診断を受けて山歩きを止められた。
妹トシの長い闘病生活
トシは当初チフスの疑いだったが発熱が続き、肺炎と診断され、賢治は母と上京して1919年3月3日まで(イチは1月15日まで)看病する。
法華経への激しいのめり込み
浄土真宗の門徒である父を折伏しようと激しい口論を繰り返した。友人である保阪嘉内には入信を勧める手紙を度々送った。
1921年(大正10年)1月23日夕方、東京行きの汽車に乗り家出(国柱会入信のため)。
大きな父への反発・甘え・負い目
自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。
大正8年3月3日、退院したトシと花巻へ帰り、嫌いな家業を手伝う生活・ノイローゼ気味に。
トシの看病で状況中、父の政次郎に、東京に移住し、宝石の研磨や人造宝石の製造などの事業を始めて家業の転換をはかる計画を手紙で書き送る
が、政次郎は実現性の乏しい仕事に反対。
1926年、羅須地人協会設立も、当時の農民にはリヤカーは高級品で、賢治の農業は金持ちの道楽とみられてしまう。12月上京。タイプライター、
セロ、オルガン、エスペラント語を習い、観劇をするが、資金は父親頼み。

保阪嘉内への激情
盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間で、互いに「恋人」と呼び合うような親しい間柄になる。嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面は、時にあたかも恋人に宛てたような表現になった。
1921(大正10年)年7月、保阪と決裂、以後は疎遠になる。