仙臺まちなかシアター♯14 作者 新美南吉さんを紹介します!

短い生涯の間に,優れた作品を多く残した新美南吉さん。交流はなかったけれど、宮沢賢治さんの作品も高く評価していたそうです。

新美 南吉(にいみ なんきち、1913年7月30日 – 1943年3月22日)
日本の児童文学作家。本名は新美 正八(旧姓:渡邊)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くない。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。

生い立ち

1913年7月30日、畳屋を営む渡邊家の次男として生まれる。母りゑは出産後から病気がちになり、1917年11月,29歳で死去。多蔵は南吉を実家に預け、再婚相手を探した。1919年2月12日、多蔵は酒井志んと再婚。1920年4月1日、半田第二尋常小学校に入学。おとなしく体は少し弱かったが成績優秀だった。あだ名は「正八」をもじった「ショッパ」。
 南吉の実母・りゑの実家の新美家では跡継ぎが亡くなってしまい南吉が養子に出されることになり, 1921年8歳の南吉は祖父の孫として新美家と養子縁組させられた。南吉は養母と二人暮らしをはじめるが、寂しさに耐えられず、5か月足らずで渡邊家に戻るが,南吉の籍は新美家のままだった。この出来事は幼い南吉にとって大きな衝撃であった。ただし、家族仲は良く、志んは南吉を実子と同じように扱い、南吉は異母弟の益吉をよくかわいがっていた。
 1926年3月20日、半田第二尋常小学校卒業。成績優秀で「知多郡長賞」「第一等賞」を授与される。畳屋の父は息子を進学させるつもりはなかったが、担任の伊藤仲治が渡邊家に通って説得する。学校の先生になれると聞いた多蔵は進学を許可。旧制愛知県立半田中学校に入学する。中学で南吉は児童文学に向かうようになり、1928年、校友会誌『柊陵』第九号に『椋の實の思出』童謡『喧嘩に負けて』が掲載される。その後様々な雑誌に作品を投稿する。1929年9月同人誌『オリオン』を発行。10月、『愛誦』に掲載された童謡『空家』から「南吉」のペンネームを使いはじめた。その後は日記帳に作品を書き始める。 中学校卒業直前、『赤い鳥童謡集(北原白秋編)』を読んで感銘を受け以後白秋に心酔した。南吉の実家は、多蔵が畳屋、志んが下駄屋を営んでおり、南吉には離れの家が与えられていたが、2月10日、離れが火事で全焼する。当初、南吉の火の不始末を疑われ、結局原因はわからず仕舞いとなったが、南吉は大きな衝撃を受けた。
 1931年3月4日、半田中学校を卒業。早稲田大学に進学を考えていたが父の許しを得られず,母校の半田第二尋常小学校を紹介され、代用教員として採用される。『赤い鳥』5月号に南吉の童謡『窓』が掲載される。主催者の北原白秋を尊敬する南吉は喜び、教員生活の傍ら創作、投稿を続けた。
 1932年、『赤い鳥』1月号に『ごん狐』が掲載される。帰郷した南吉は両親に外語学校受験を願い出て許可される。
  1934年、2月16日、第一回宮沢賢治友の会出席。 2月25日、結核のため喀血する。南吉は実家に帰り1か月あまり療養したのち、4月に学校に戻る。
 1936年、3月16日、東京外国語学校を卒業する。4月、東京土産品協会という会社に就職する。10月、二度目の喀血で倒れ1か月寝たきりの生活になる。11月16日、帰郷し療養生活を送る。
 1937年、河和第一尋常高等小学校の代用教員を7月末まで務め,同じ学校で代用教員の山田梅子との交際が始まる。その後、女学校教員採用が決まる。中山ちゑとの交際がはじまり、山田梅子に別れの手紙を書く。
 1939年、日日新聞に『最後の胡弓弾き』『久助君の話』や詩が掲載される。体調もよく、3年生の関西旅行引率や富士登山、同僚と熱海や大島へ視察するなど充実した年であった。 1940年、6月9日、中山ちゑが青森県の知人宅で体調を崩し、急死。南吉は葬儀で男泣きに泣き、その後1か月は腑抜けのような状態だった。一方この年は作品が次々雑誌に載った。
 1941年1月4日から良寛の伝記を書き始め、3月9日脱稿。2万部出版され1300円の印税を受け取る。父,多蔵は「正八はえらいもんになりやがった、年に千三百円ももうけやがった。」としみじみ言ったという。しかし伝記執筆後から体調が悪化。4月は腎臓病で10日あまりも学校を欠勤。その後も体調不良が続き、11月中旬には岩滑の実家に戻っていたが、12月血尿が出る。南吉は死を覚悟した。
 1942年、3月末から5月末までの2か月の間に『ごんごろ鐘』『おぢいさんのランプ』『花の木村と盗人たち』『牛をつないだ椿の木』など童話を次々書き上げる。10月10日はじめての童話集『おぢいさんのランプ』刊行。
 11月2日、北原白秋が死去。1943年、年明けからは女学校を長期欠勤,退職。退職後は咽頭結核のためほとんど寝たきりになる。3月20日、恩師の妻が見舞いにきた。南吉はほとんど声が出ない様子で、「私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ」と語った。3月22日午前8時15分、死去。29歳8か月の生涯だった。

エピソード

  • クラシック音楽愛好家で日記にしばしば音楽についての記述がある。蓄音機を持っていなかったので、東京では名曲喫茶と呼ばれた喫茶店に通ったり、蓄音機のある友人宅でレコードを聴いていた。
  • 生涯独身だったが、29年の生涯に3人の女性との交際経験がある。いずれも失恋で終わっている。
  • 地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれ好対照をなしている。賢治は南吉がまだ学生だった1933年(昭和8年)に亡くなっているため、両者は会った事はないが、南吉自身は早くから賢治の作品を読み、高く評価していた。
  • 作品の多くは、故郷である半田市岩滑新田(やなべしんでん)を舞台としたものであり、特に少年達が主人公となる作品では、「久助君」「森医院の徳一君」等、同じ学校の同じ学年を舞台としたものが多い。「久助君」を主人公にした作品が最も多く、俗に「久助もの」と呼ばれる。