仙臺まちなかシアター♯15「夜長姫と耳男」作者の坂口安吾さんを紹介します!

仙臺まちなかシアター、第1クールが明日遂にFINAL!!ラストをかざる演目、「夜長姫と耳男」の作者、坂口安吾さんを紹介します。破天荒で独特な世界観で大変人気のある作家さんですが、実際の人生もなかなか自由で破天荒。ぜひお読みください♬

生い立ち

坂口安吾(本名:坂口炳吾)は1906年(明治39年)新潟県生まれ。憲政本党所属の衆議院議員坂口仁一郎の十二番目の子(五男)。かつては「坂口家の小判を積み上げれば五頭山の嶺までとどき、阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きぬ」と言われた程の由緒正しき一家だったそうなのですが、坂口が生まれた頃には祖父の投機失敗や父の政治活動資金運用の関係で傾きかけていた。 幼稚園の頃より不登校になり、餓鬼大将として悪戯のかぎりを尽くす。 幼い頃から破天荒で、テストで簡単に満点を取って帰ったかと思いきや夜まで遊び歩いてなかなか家には帰らなかったり、近所の子を脅して無理矢理呼び出したりとまさに『頭が良い分非常にタチが悪い悪ガキ』状態だった。
中学生になると坂口の目は次第に悪くなっていき、家計が火の車状態だったせいで眼鏡を買うことが出来ず(買ってもすぐに壊してしまったんだとか……)、黒板の文字が読めずに成績が下がっていってしまったそうです。視力低下が成績の下がった理由であると知られるのを恥じた坂口は次第に学校に行かなくなってしまい、遂には留年。何が何でも勉強をしない坂口に対し、怒った教師は「お前なんか炳五という名は勿体ない。自己に暗い奴だからアンゴと名のれ」と黒板に「暗吾」と書いたが、何故か坂口はこれを気に入ったようで、彼は後々「安吾」と名乗るようになる。
1926(大正15)年、求道への憧れが強まり、東洋大学印度哲学科に入学するも、過酷な修行の末、悟りを放棄する。
1930(昭和5)年、友人らと同人雑誌「言葉」を創刊、翌年6月に発表した「風博士」を牧野信一に絶賛され、文壇の注目を浴びる。その後世評的には不遇の時代が続いた。
1946(昭和21)年、戦後の本質を鋭く把握洞察した「堕落論」、「白痴」の発表により、一躍人気作家として表舞台に躍り出る。戦後世相を反映した小説やエッセイ、探偵小説、歴史研究など、多彩な執筆活動を展開する一方、国税局と争ったり、競輪の不正事件を告発したり、また薬物中毒に苦しむなど、実生活でも世間の注目を浴び続けた。
1955(昭和30)年2月17日、脳溢血により急死。享年48歳。小説の代表作は「紫大納言」「真珠」「白痴」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」など。エッセイの代表作は「FARCEに就て」「文学のふるさと」「日本文化私観」「堕落論」「教祖の文学」など。

エピソード

夢は『落伍者』!
学校の所有物に「余は偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらう」と勝手に刻み、試験は白紙で提出し、授業には出ず百人一首をして遊ぶ……そんなこんなで再び落第しかける坂口だが、最終的には大学でフランス語を取得(しかも優秀過ぎて賞を貰う)するなど、文学者として名を残す以外の分野でも活躍。
居候中なのにカレーを出前注文! その数が凄まじい!!
堕落論で売れっ子となった後も浪費グセが酷くて借金に追われ、家は差し押さえられ、家財も当然ながらなく、色んな人の家を点々としていた坂口とその妻。檀一雄氏の家に居候していた時。坂口は突如、妻の三千代に「カレーの出前を取れ」と命令する。1酒に酔っていたのか、むしゃくしゃしてやったのか、全く分かりません。何しろ本人は何も語らず、ひたすら庭に並べられていくカレーを食べていた……。(※ちなみに流石に出前を頼まれた蕎麦屋さんも「???」となったのか、実際に運ばれてきたのは20~30人前だったそう)
どうやら掃除が物凄く苦手だったようで
写真のお部屋は、坂口曰く、2年間掃除をしていない書斎だそう(本当に「2年」なのかどうかは不明)。元々物に対して執着しないという坂口はあまり物を持たず、さらには「片付けると埃が舞うから」などの理由で書斎を放置…。坂口本人も「綺麗ではない」という自覚はあったよう。この散らかりっぷりが露見してしまった理由は、写真家、林忠彦による発表。元々写真嫌いでなかなかカメラに写りたがらないという坂口を撮影しに来た林は、散らかった書斎を見て「これだ!」と思い、坂口をテーブルの前に座らせ写真を撮ったそう。