♯13「父」作者の矢田津世子さんを紹介します。

もしかすると知らない方も多いかもしれません。短く濃密な作家人生を生き抜いた方です。作品では、登場人物の心情や細やかな生活描写が、繊細かつ力強く描かれています。東京を拠点に活躍しながらも、 多くの作品には、幼少期を家族と過ごした郷里秋田にゆかりを持つ人物や場面が出てきます。

日本の小説家、随筆家。秋田県南秋田郡五城目町出身。はじめモダン派であったが純文学に転進し、1936年に小説『神楽坂』が第3回芥川賞候補に選ばれる。文章力と美貌を兼ね備えた女流作家として人気を集めた。坂口安吾の恋人とされる。

幼少期
母のチヱは、近所の娘たちを家へ通わせ、礼儀作法や裁縫を教えていた。父は学校の成績にはひとつも口を出さず、通信簿を子どもたちがもっていくと、だまって受けとり神だなに上げてしまうような人であったため,子どもたちはなんでも母に話した。母は子どもたちへ、「上の学校へ進みたいなら、どんな学校にもいかせてあげるよ。」と言い、津世子には「女でも勉強はしっかりしなければなりません。そして、人にめいわくをかけてはいけません。」と諭した。
大正3年(1914)、津世子は秋田の五城目小学校に入学。小学校2年生で東京に転出、転校先の東京の富士見小学校では、ひどい成績になった。秋田なまりがひどく,津世子が何かいうと、教室中の子どもたちがげらげら笑った。しかし都会の子どもたちの態度に、津世子の負けん気が目をさまし,4年生になると成績はトップクラスに。まわりにはいつの間にか友だちが集まるようになり、いじめっ子はひとりもいなくなった。

職業婦人から作家へ
 高等女学校(今の女子高等学校)でも、優等賞をうけて卒業。そのころ津世子は、色が白くすらりとした美しい娘に成長していた。家計を助けなければならないこともあって、津世子は銀行につとめ,夜はタイピスト学校に通った。しかし兄に進められて勤めをやめて小説家を志すようになり,20歳のとき,兄の転勤先の名古屋で作家修行を開始。まず、女性だけの文学団体『女人芸術』に加わった津世子は1930年に初めての小説を発表。さらに、この年の暮れには、新潮社の『文学時代』の懸賞小説に入選。どうにか作家としてのスタートをきったが、津世子はいっそう勉強しなければならないと思い、母と兄に別れ津世子はひとりで東京にもどる。東京にいると、次々に注文が来て毎月のように雑誌に津世子の作品が載ったが,とりあげられるのは、ごく短いコントとよばれる小説ばかりであった。若い美しい女流作家という、文学そのものとは関係のない人気者にされたことにも不満を持っていた。

坂口安吾との出会いと別れ、本格的な作家活動へ
 1932年、兄の不二郎は東京本社に勤務することになり、一家はまた東京で暮らすようになる。同年暮れから翌年1月頃にかけて坂口安吾と知り合い、急速に親密な交際に発展、互いの家を訪問し合うようになる。安吾は津世子に誘われて同人誌「桜」の創刊に参加した。
同年、非合法活動に入っていた湯浅芳子に頼まれてカンパに応じたことから特別高等警察に連行され、10日あまり留置される。このころより津世子の健康がすぐれなくなったと言われている。
 1935年、のちに生涯の知友となる大谷藤子の推薦で「日暦」同人になって武田麟太郎に師事。武田は、きびしい指導で有名で、津世子も原稿を持ちこむたびに、なんども書きなおさせられた。 
 1936年1月頃、しばらく途絶えていた安吾との交際が再開されたが、3月5日頃に本郷の菊富士ホテルに安吾をたずねたのを最後に、その後津世子のほうから安吾に絶縁の手紙が出される。弟子の原稿を読んでも、めったに「よし」といわない武田が、津世子を前にして、「これは、いい。とうとう、いいものを書いたね。」評価した作品が「神楽坂」。矢田家が上京して名古屋にうつるまで住んだ飯田町のとなり町神楽坂を舞台としたもので、登場する人物には秋田に関係する人物が登場する。津世子は、自分の見たものをもとにし、この作品をなんども書きなおし、苦心に苦心を重ねて書きあげた。
 1936年、29歳のとき「神楽坂」は、『日歴』から『人脈文庫』と名前を変えた雑誌に発表され,第3回芥川賞候補になる。受賞は逃したものの、この小説はたいへん評判になり、津世子は一人前の作家と認められた。
 12月には、津世子の最初の小説集『神楽坂』が、改造社から出版され、ベストセラーとなる。そのほか、「妻の話」「桐村家の母」「やどかり」「女心拾遺」など、すぐれた作品を次々と発表。

早すぎる死
 1938年(31歳)頃から肺結核に侵され、病床につくことが多くなったが,それでも小説の筆はすてず、「鴻ノ巣女房」「花蔭」「茶粥の記」「蔓草」などを発表。
 『改造』にのった「茶粥の記」は、津世子の最高の傑作といわれ、今でも「神楽坂」と並んで高く評価されている。病気によって人生を見つめることが、さらに深まり、それが津世子の書く作品ににじみ出ているといわれる。
 小学校2年生までしか住まなかったふるさとを、津世子は忘れられず、ほとんどの小説に、幼少期を過ごした五城目や秋田のこと,秋田弁や秋田の食べものが出て来る。
 当時は今のように結核にきく薬はなく、栄養をとって静かにしているという方法しかなかったが、太平洋戦争がはげしさをまし、食料不足のため病気の勢いを止めることはできなかった。
 病床から起きあがれなくなっても、津世子は胸に氷のうを当て、寝ながら原稿を書いていた。そして、昭和19年(1944)3月14日、36歳で亡くなった。
 文学の上で津世子の無二の友だった大谷藤子は、生家あと近くの文学碑で「その生涯を書くために生き、そのために結婚もしなかった。まこと才能豊かな小説家で、誠実と信頼に生きた人である。彼女は、まれに見る美しい人であった。」と、回想している。
 津世子の文学は、没後半世紀たってまた評価が高くなり、平成元年5月に『矢田津世子全集』が出版された。