♯12「赤西蠣太」作者の志賀直哉さんを紹介します!

明治から昭和にかけて活躍した日本の小説家。白樺派を代表する小説家のひとり。「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えたと言われます。ただ、年譜を見るとけっこう休筆の期間も多いです。また、おもしろいエピソードがたくさんある作家さんです。

1883年 陸前石巻(現在の石巻市住吉町)に、銀行員の父の次男として生まれる。幼い頃は母親から取り上げられ、祖父母に溺愛して育てられる。
1895年 8月30日、母の銀が妊娠中病死。秋、父の直温が再婚。その後直哉に弟一人、妹5人が生まれる。
1901年 足尾銅山鉱毒事件の見解について、父と衝突。以後の決定的な不和のきっかけとなる。1902年 中等科2度目の落第。学生時代はあまり成績のよいほうではなかったらしい。武者小路実篤と同級になる。
1906年 東京帝国大学英文学科へ入学。
1907年 父と結婚についての問題で再度衝突。
1908年 処女作となる「或る朝」を執筆。
1910年『白樺』を創刊、「網走まで」を発表。東京帝国大学を中退。徴兵検査を受け甲種合格。市川の砲兵連隊に入営するが、8日後に除隊。
1912年 父との不和が原因で東京を離れ広島県尾道市に渡る。
1914年 5月から松江に移り小説を執筆するも断念。以後休筆。12月21日、父親の反対を押し切り勘解由小路康子(武者小路実篤の従妹)と結婚。武者小路家で結婚式を挙げる。
1917年 執筆活動再開。8月、父との不和が解消される。「和解」を執筆。
1929年 五女田鶴子誕生。この年から休筆。
1933年 5年ぶりの小説「万暦赤絵」を発表。
1938年 改造社『志賀直哉全集』最後の月報で文士廃業宣言。
1941年 「早春の旅」で文筆活動再開。
1942年(昭和17年) 「シンガポール陥落」「龍頭蛇尾」を最後に終戦まで休筆。
1949年(昭和24年) 文化勲章を受章。1971年(昭和46年) 10月21日、死去。

エピソード

  • 裕福だった志賀直哉は13歳の頃、10円あれば1ヶ月暮らせた時代に160円する自転車を祖父にせがんで買ってもらった。たまに自転車に乗っている人がいると引き返して無言で競争を挑み、競争に飽きると今度は曲乗りの練習をした。(志賀直哉「自転車」)
  • 無宗教家で家には神棚も仏壇も置かなかった。柳宗悦からもらった木喰の薬師如来像を持っていたが、信仰の対象ではなかった。また迷信や祟りも一切信じなかった。
  • 挨拶代わりに「失敬」をよく使った。これは「こんにちは」「いらっしゃい」「初めまして」「失礼します」「さようなら」まですべて含んだ直哉独特の挨拶だった。
  • 直哉本人は乱暴な言葉を使うこともあったが、娘たちへの言葉遣いへのしつけは厳しかった。戦後、世田谷新町の家に高橋信之助一家が居候していた時、五女の田鶴子が妻の知子と話して戻ってきたあと、「知子さんてほんとうに滑稽な方ね」と言ったところ直哉は激怒し「人の細君に対して滑稽な人という言い方は無いよ。失敬だ。すぐ行って謝ってこい。」と言われたため、田鶴子は知子の部屋に行き「大変に失礼なこと申しましてごめん遊ばせ」と謝った。
  • 写真家の田村茂が直哉を撮影するため熱海の自宅へ訪問したことがあった。直哉の家の周りは農家だったので、家の中にもハエが飛び回っていた。しかし直哉は撮影中にハエが頭に止まっても気にすることはなく、平然と煙草を吸っていた。田村は直哉の頭にハエが止まった瞬間を「これだ」と思って撮影して出版した。田村によると、この写真は直哉の些細なことでは動じない性格をよく表しており、見る人に対して直哉の悠揚たる物腰を伝えたかったという。
  • 中等科6年生の頃、歌舞伎に夢中になり歌舞伎座や明治座に通った。
  • 映画好きでもあった。特に怪盗映画『ジゴマ』、シュトロハイムの大作『愚なる妻』、バレエ映画『赤い靴』は何度も見るほど好きだった。
  • 引っ越し魔で、 談話『転居二十三回』によれば生涯23回引っ越しをしたという。
  • 大の動物好きで、犬、猫、狸、羊、猿、兎、山羊、熊、亀、文鳥、アヒル、七面鳥、鳥、鳩、烏などを飼ったことがある。骨董品を買いに行く、と出かけて犬を買って帰り、奥さんから「これ以上犬が増えたら困りますので(すでに3匹飼っていた)、もう骨董品を買いに行かないでください」と嫌味を言われたとか。