♯11「女方」三島由紀夫さんを紹介します

本名平岡 公威〈ひらおか きみたけ〉。1925年- 1970年。小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。
 戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。
 代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
 晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーでクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた。

エピソード 

①太宰治が大嫌い
 7月17日(金)には、別の会場鹿落堂さんで、太宰治作品が上演されていますが、なんとこんなエピソードが…

当時若者から、圧倒的な支持を得ていた太宰治。駆け出しの学生作家では、対等に口をきくことさえと思えますが、三島由紀夫は違います。三島由紀夫は、太宰治の才能は評価してました。が、「自己劇画化」の文学が嫌いで、文句をつけようと思っていました。太宰の居る酒席を友人らと一緒に訪れました。太宰文学の愛読者である友人たちの前で、三島由紀夫は、太宰治に食って掛かります。「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と一言。太宰は、虚を突かれたように、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけました。「そんなことを言ったって、こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と語りました。気まずくなって三島由紀夫はその場を離れました。それが、三島と太宰の唯一の対面となりました。

③体が弱かった幼少時代
1925年、エリートの家庭に生まれるが、未熟児で生まれ体が弱かったため、いじめの対象となった。
 幼い頃の三島由紀夫に、大きな影響を与えたのが、学習院中等科に入学するまで同居していた祖母・ 夏子。ヒステリックで、行儀作法に厳しい人でした。病弱だった三島の遊び相手に、年上の女の子を選び、男子の三島由紀夫に女の子の遊びをさせていました。華族意識、特権階級意識が強かった夏子は、皇族が多く通った学習院初等科に、三島由紀夫を入学させました。ただ、当時の学習院は「質実剛健」。体の弱かった三島少年は、今でいう「いじめ」の対象となりました。

コンプレックスから始めたボディビル

三島由紀夫は、幼少の頃の虚弱体質を嫌悪していました。戦後、作家として生活できるようになると、ボディビルやボクシングを始め、肉体改造にお金と力を注ぎました。一方で、三島由紀夫は、全てが覆された戦後の日本を認めることができませんでした。戦前や、明治時代、平安時代などの古き日本への憧れを強めていきました。天皇制への格段な思い入れも三島由紀夫は持っていました。