「仙臺まちなかシアター」♯10「おさん」作者 太宰治さんを紹介します!

本名津島 修治(つしま しゅうじ) 1909~19048年。小説家。 青森県下有数の大地主の家の六男として生まれた。11人の子女のうちの10番目。父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。小学校では開校以来の秀才と言われていたという。
1923年父が死去。4月、青森県立青森中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読、在学中の17歳頃に友人と同人誌『蜃気楼』を発行。小説家を志望するようになる。
1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。夏休みで金木に帰省中の7月24日、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという。
 左翼活動での挫折後、1929年頃から自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。
1938年、石原美知子と見合い結婚。3人の子供をもうける。 1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で肺浸潤とされて徴用免除される。太平洋戦争中も旺盛な創作活動を継続。
1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲に遭い、美知子の実家の甲府に疎開。7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた。「斜陽」のモデルとなった歌人太田静子や、美容師の 山崎富栄など、もつれた女性関係があった。
1948年、山崎富栄と玉川入心中。
主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。

エピソード

・ 身長は175cmと当時の男性としては大柄で、大食漢だった。新婚当時、酒の肴に湯豆腐を好み、豆腐屋から何丁も豆腐を買っていたため近所の噂になるほどだった。
・とにかく自殺未遂が多い方。1929年(カルモチン自殺)
1930年(カフェの女給と心中未遂。相手のみ死亡)1935年( 都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死を企てたが失敗)1937年(小山初代と心中未遂 )。
・1948年、愛人の山崎 富栄は手際が良く、「スタコラさっちゃん」と呼ばれ、太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。美容師をやめ、20万円ほどあった貯金も太宰の遊興費に使い果たした。部屋に青酸カリを隠していると脅し、6月7日以降、太宰は富栄の部屋に軟禁状態になった。
・自殺未遂が多い太宰治だが、玉川入水自殺については様々な憶測を生んだ。 無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く”イヤイヤ”をしたのではないでしょうか」、「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している。
・ 50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、妻の美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。
・学生時代、芥川龍之介が好きすぎて、使っていたノートには芥川龍之介の名前を書き連ねたり、似顔絵を書いたりしていた。写真のポーズで撮った写真まで残している。