仙臺まちなかシアター♯9「御身」作者、横光利一さんを紹介します!

1898年(明治31年)3月17日 – 1947年(昭和22年)日本の小説家・俳人・評論家。菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。
鉄道技師だった父の仕事の関係で、転校を繰り返す小学生時代を過ごした。中学生の頃には夏目漱石や志賀直哉などの作品を読むようになり、教師に文才を認められて小説家を目指すようになった。
早稲田大学に進学し、このころから文芸雑誌に小説を投稿するようになり、生涯師事することになる菊池寛と出会う。菊池の口添えで「文藝春秋」で記事を書きながら、25歳の時に発表した「日輪」が話題となり文壇デビューを果たす。その後川端康成ら新進作家とともに「文藝時代」を創刊し、新感覚派と呼ばれた。『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋と東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。

1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉とともに「小説の神様」とも称された。戦後は戦中の戦争協力を非難されるなか、『夜の靴』などを発表した。死後、再評価が進んだ。また、西洋近代の超克をめぐる横光への文学的評価の是非は文学者、作家の中でも大きく別れることが多い。


エピソード

・とてもきまじめな性格で、作品が売れる前に菊池寛・川端康成と牛鍋を食べに行ったとき、「今ここでこんなにおいしいご馳走をみんなと食べたら、明日からの孤独な貧乏生活に耐えられそうにないので遠慮する。悦楽に浸り、文学の勉強を疎かにするわけにはいかない」と一口も食べなかった。
・文章を書くこと以外は何もできず、電話ひとつかけられなかった。菊池寛と旅行に行った際は、切符を買ったりという雑用は全部菊池にやってもらった。
・29歳の時に結婚することになり、披露宴に川端康成も駆けつけた。川端が宿泊先を決めていないことを察した横光は心配して、「伊豆のホテルに泊まるから、一緒に行こう」と新婚旅行に同行させた。
・文藝春秋主催の野球大会に参加したときは、「ユニフォームを持っていなくて」とモーニングを着てきた。