仙臺まちなかシアター♯8「晩菊」作者の林芙美子さんを紹介します!

 まだまだ女流作家が少ない時代に、売れっ子作家として活躍した林芙美子さん。文壇での評価は厳しかったようですが、それに反して、人々は彼女の作品を熱烈に支持しました。
今回朗読上演した「晩菊」の最後のほうにちょこっと出てくる「ヒロポン」についても調べてみました。読んでから観て頂くと、「なるほど」と頷ける場面がたくさんあるかもしれません。

林芙美子
1903年〈明治36年〉12月31日 – 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家。物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある。「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきた。
 25歳で『女人芸術』に発表した「放浪記」が評判を呼び、作家デビュー。昭和23(1948)年『晩菊』で女流文学者賞を受賞。昭和26(1951)年、東京都新宿区の自宅にて持病の心臓弁膜症の悪化による心臓発作で急逝。享年47。代表作は『晩菊』『浮雲』など。(Wikipediaより)

 我の強い性格ゆえに、周囲の人間とたびたび諍いを起こしていた。作品では過去の男をネタにし、赤裸々な暴露小説に仕立てた。また、他の女性作家が世に出ることを嫌い、何かと妨害工作をするとの噂もまことしやかに流れていた。文壇きってのトラブルメーカー、性格の悪い嫌な女と見做されていた。
 しかし、野心家で自信家とされていた彼女自身の自己評価は、むしろかなり低くかったようだ。「私の作品が私の死後残るなどとは思わないけれども、此『放浪記』だけは折にふれて誰かの共感を呼ぶに足るものであるとは自信を持っている」
 『放浪記』は彼女に富と名声をもたらしてくれた作品である。だが、当時の左翼作家たちは「ルンペン小説」と貶(けな)した。ルンペン・プロレタリアート、つまりマルクス主義で言うところの労働者階級(プロレタリアート)と敵対する最底辺のクズが書いた作品だとレッテルを貼ったのである。
 宮本百合子は、芙美子(と宇野千代)を指して、「その時代的な雰囲気だけをわが身の助けとして、婦人として、芸術そのものの発展の可能について思いめぐらさず、『女に生まれた幸運』やポーズされた『孤立無援』『詩情』を、文学の商牌としたことは、この人たちばかりの悲劇であるだろうか」と大変上からな物言いで評している。
 文壇やインテリ層がなんと言おうと、大衆は芙美子の小説を強く支持した。等身大の庶民が描かれていたからこそ、芙美子の小説は人気を得、「ベストセラー作家」となった。
 同時に、貧困への恐怖もまた、芙美子が馬車馬のように働いた動機だっただろう。芙美子は夫と養子、老母を扶養するだけでなく、親族一同の面倒も見ていた。貧苦の恐怖が骨身にしみている芙美子だからこそ、稼ぐことに執着したし、どんな仕事でも断らなかったのだろう。

 昭和24年には肺炎で入院、医師からは静養を進められ、翌年からはたびたび療養のために熱海に滞在した。しかし、そこでも筆を休めることはなかった。遠方に取材や講演旅行にも出かけることも多かった。

私はあと幾年も行きてはいられないような気がしている。心臓が悪いので、酒も煙草も停められているのだけれども、煙草は日に四五十本も吸う。酒は此頃飲まないことにしている。(『椰子の実』より)

 林芙美子は昭和26年6月28日、47歳の若さで突然死している。
 直接の死因は、持病の心臓弁膜症が悪化した末の心臓発作。だが、悪化を招いた原因は、あきらかに過労とタバコとヒロポンによる薬害だった。
 ヒロポンとは大日本製薬(現在の大日本住友製薬)が昭和16年から販売を始めたメタンフェタミン系覚醒剤の商品名で、昭和26年までは普通に薬局で買えた。つまり、違法薬物ではなかったのである。「疲労がポンと取れる」というので付けられた商品名だそうだが、そんな軽いノリで覚醒剤が使われていた時期が、かつての日本にはあったのである。使用者は主に寝る間も惜しんで働かなければならない人たちだった。

 芙美子はまさに「寝る間も惜しんで働く」代表選手のような生活をしていた。売れっ子作家として、彼女はほぼ自力で培った文章力と観察眼だけを武器に世に出て、道なき道を切り開いていった。