仙臺まちなかシアターINおうちdeシアター♯7「火事とポチ」作者、有島武郎さんを紹介します!

童話集「一房の葡萄」(「火事とポチ」はこちらに収録されています)では、少年の眼から見た日常の中の非日常の出来事を、瑞々しい目線で描いている有島武郎さんですが、なかなか波瀾万丈の人生を送ってらっしゃいます。
15日(月)15:00配信に先駆けてご紹介します!

有島武郎(ありしま・たけお)
 武郎は明治11(1878)年に東京で生まれた。明治期の士族の家の長男に生まれた武郎は、後継ぎとして厳しく育てられた。4歳の時、一家は横浜に転居。そこから英語の英才教育が始まる。まずは知人の米国人一家に預けて英語を覚えさせ、就学期になるとミッションスクールである横浜英和学校(現・横浜英和学院)に通わせた。10歳の頃、学習院に編入すると、成績優秀・品行方正だった武郎は後の大正天皇となる明宮嘉仁親王の御学友に選ばれる。  

支配階級への道一直線に進んでいた武郎だったが、思わぬ陥穽が待っていた。体が弱かったため、都会暮らしでは命が危うくなると医者に宣告されたのだ。19歳にして地方移住を余儀なくされた武郎は、進学先に北海道(札幌農学校)を選んだ。有島の同級生で終生の友人、森本厚吉がキリスト者であったため、武郎は信仰にのめり込み、キリスト教に入信することを決め、清教徒に倣った祈りと禁欲の生活を実践していく。 

農学校を卒業後、一年間の兵役を終えた武郎は、米国留学を目指して準備を勧めていたとき神尾安子出会い、数年の留学生活の後、結婚。次々と三人の男の子が生まれた。だが、安子は結核のため、27歳の若さで没した。 時に大正5(1916)年、武郎は38歳。妻の死とともに、厳しかった父も死去し、その翌年から小説家としての仕事を本格化させた。1917年には「惜しみなく愛は奪ふ」「カインの末裔」、1918年には「小さき者へ」「生れ出づる悩み」、1919年には「或る女」と代表作を次々に発表していく。
 その理知的かつ最新の思想に裏打ちされた作品はまたたく間に人気を博し、圧倒的な支持を得た。特に母なき子となった三兄弟にあてて書いた「小さき者へ」は世の女性の紅涙を絞ったという。

 理知溢れる文章、柔和な顔立ち、洋行帰りの洗練された立ち居振る舞い。結婚生活数年で妻を亡くした後、子どもたちのために独身を貫く決意をしたという清廉性と悲劇性。おまけに婦人運動に理解を示す近代人としてのスマートさを持ち合わせた有島武郎は、数々の女性と交流をもつ(肉体関係のない交流)。
 中央公論者の女性編集者、波多野秋子も、最初はそうした中の一人だったが、秋子が女優顔負けの飛び抜けた美女であったこと、そしてもう一つは、破滅願望に囚われつつあった武郎の心の部屋に、うまくすっぽり入り込んだことで、深い関係へと進展していった。

1919年まで順調だった武郎の創作活動は、20年後半になって急ブレーキがかかった。創作力の減退を本人が感じるようになったのだ。それはつまり理想主義者・有島武郎の行き詰まりであった。武郎は、自然主義文学が抱える自己憐憫や欺瞞を超え、それを内包した上での理想主義を貫こうとしていた。しかし、我が身をブルジョア階級に置く以上、どれだけ真剣に拳を振り上げても所詮は有閑階級の戯言としか受け取られない。その現実に耐えられるほど、武郎は厚顔ではなかった。この一点において、武郎は確かに稀に見る純粋の人だったといえる。
 二人は、愛人関係になったが、間を置くことなく、道ならぬ恋が秋子の夫・春房の知るところとなり、大正12(1923)年6月8日の夜。武郎45歳、秋子30歳のとき、二人は列車で軽井沢に向かい、別荘で数通の遺書と辞世の歌をしたため心中。

 もし私が愛するものを凡て奪い取り、愛せられるものが私を凡て奪い取るに至れば、その時に二人は一人だ。そこにはもう奪うべき何物もなく、奪わるべき何者もない。

「惜しみなく愛は奪ふ」