仙臺まちなかシアターINおうちdeシアター♯7「人間椅子」作者の江戸川乱歩さんを紹介します!

【経歴】

・1894年(明治27年)三重県に生まれる。小学生のころに母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』が、探偵小説に接した最初であった。旧制愛知県立第五中学校を卒業後、早稲田大学の政治経済学科に進学。卒業後は貿易会社社員、古本屋、支那そば屋など多くの仕事を経る。
・1919年、読み聞かせ会で知り合った坂手島の小学校教師である村山隆子と結婚する。
・1923年(大正12年)『新青年』に掲載された『二銭銅貨』でデビューする。欧米の探偵小説に強い影響を受け、本格探偵小説を志す一方で『心理試験』『赤い部屋』といった変格とみなせるような作品も書き、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残した。
・『人間椅子』や『鏡地獄』に代表されるようなフェティシズムや怪奇小説の部類も初期から執筆しており、少年愛・少女愛、男装・女装、人形愛、グロテスク、などの要素を含んだ通俗探偵小説も、昭和初期から一般大衆に歓迎された。また、少年向けとして、明智小五郎と小林少年や少年探偵団が活躍する『怪人二十面相』などがある。
・日本が戦争体制を強化していくにしたがい芸術への検閲が強まっていったが、1937年(昭和12年)頃より、その度合いは強くなった。探偵小説は内務省図書検閲室によって検閲され、表現の自由を制限された。一説では、内務省のブラックリストに乱歩の名が載っていたという。
・太平洋戦争に突入すると、探偵小説は少年ものですら執筆不可能となり、乱歩は小松竜之介の名で子供向きの作品(科学読み物「知恵の一太郎」など)や内務省の検閲対象とならない海軍省の会報に論評を載せるなどしていた。
・戦後も乱歩は主に評論家、プロデューサーとして活動するかたわら、探偵小説誌『宝石』の編集・経営に携わった。また、日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力した。
・晩年の乱歩は高血圧、動脈硬化、副鼻腔炎(蓄膿症)を患い、さらにパーキンソン病を患ったが、それでも家族に口述筆記させて評論・著作を行った。
・1965年(昭和40年)7月28日、乱歩はクモ膜下出血のため東京都豊島区池袋の自宅で70歳で没した。

【プロデューサーとして】

・戦後は、新人発掘にも熱心で、高木彬光、筒井康隆、大薮春彦、星新一など、乱歩に才能を見出された作家は少なくない。『宝石』編集長時代には、多くの一般作家に推理小説発表の場を与えている。
・日本国外の推理作家との交流にも積極的で、エラリー・クイーンと文通してアメリカ探偵作家クラブ (MWA) の会員にもなった。

【エピソード】
・ 最初の筆名は江戸川藍峯(ランポウ)でした。2001年に発見された二銭銅貨の草稿にはそちらが記されています。戦争中は小松龍之介の名前で子供向けの科学読物を書いていました。本名は平井太郎。
・ 作家の安部譲二が麻布中学二年の時、「宝石」に「悪血」というエログロ小説を投稿し、見事入選しました。当時編集にかかわっていた乱歩は「この子の心は病んでいる」と批判し、結局雑誌に掲載されることはありませんでした。その後、安部はヤクザの道を進みますが、この件が影響したのかどうかは定かでありません。
・ 江戸川乱歩賞の副賞賞金は1000万円、国内最高クラスです。受賞者は主催出版社が強力にバックアップしてくれるため、続けて活躍する作家が多いようです。「直木賞を受けて消えた作家はいても、乱歩賞を受けて消えた作家はいない」と言われています。
・ 「わが夢と真実」というエッセイ集の中で乱歩は蜘蛛が苦手と書いています。父親も極度な蜘蛛嫌いだったので遺伝だろうとのことです。でも「蜘蛛男」なんていう小説も書いていますよね。
・ 乱歩は早稲田大学在学中から様々な仕事に手を染め、25歳の時には団子坂で弟二人とともに「三人書房」という古本屋を営んでいたこともあります。以下が乱歩がついたことのある職業です。封筒貼りの内職、市立図書館の貸出係、英語の家庭教師、貿易商、タイプライターの販売、造船所、雑誌編集、支那そば屋、新聞記者、ポマード瓶の意匠宣伝・・。怪人二十面相並みです。
・ 三重県の名張市出身の乱歩は子供の頃から親の仕事の都合で引越しを繰り返していました。大人になって自分で住む場所を選べるようになっても住処を転々とし、生涯で46回の引越しをしています。最後に住んだのが、池袋の立教大学に隣接した土蔵付きの借家でした。乱歩はここが気に入り、昭和27年に自ら買い取り、亡くなるまで住みました。現在は日を限定して公開されています。
・ 大正十四年に専業作家になってから現在まで満三十一年余だが、そのうち十七年休筆していたのだから、正味十四年あまりしか働いていない勘定になる。書いているより休んでいる方が多かったのである。 ー江戸川乱歩「私の履歴書」