仙臺まちなかシアターINおうちdeシアター♯5「あだこ」作者の山本周五郎さんを紹介します!

1903年 山梨県に生まれる。実家は武田の遺臣で、北多摩の大草村若尾(現韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある[6]

1911年 4年生の時、担任の先生から小説家になれと励まされ、志望するようになった。
1916年(大正5年)小学校卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
1923年(大正12年)徴兵検査を受けたが、眼力が問題となり丙種合格で免れる。同年9月1日関東大震災。
1926年(大正15年・昭和元年)『文藝春秋』4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。
1930年(昭和5年)宮城県亘理郡吉田村(現:亘理町)出身の看護師・土生きよいと結婚。2男2女を儲ける。
1936年 講談社から新進作家として扱われ、講談社出版のほとんどの雑誌に作品が掲載された。当時の周五郎は、むしろまじめで几帳面な、そしてコツコツと鍛練を重ねる、真摯な作家であった。
1945年(昭和20年)妻・きよい死去(享年36)自宅の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。
1967年(昭和42年)肝炎と心臓衰弱のため死去。享年64(満63歳)。

【作風】
作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。また、伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。周五郎は、純文学の作家を目指していた。ところが、1932年に大衆色の強い講談社の雑誌『キング』に人間の信頼をテーマにした時代小説を書いた。山本の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも山本の作風である。

【人物・逸話】
・趣味は、映画鑑賞、読書、酒を飲みに行くこと。一日に60本ぐらい煙草を吸っていた。
・周五郎は、文壇とは縁が薄い。交友関係も狭い。少数の友人、編集者と「濃い」人間関係を維持した作家である。
・尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない。」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は、「三十六(周五郎の本名)。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ。」と言ったという。
・山本は、中原中也や太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ『虚空遍歴』の主人公である中藤沖也は中原がモデルであると言われている。
・ワイン好きであった山本が「これまで飲んだ和製ブドー酒のどれにも似ない、これぞワインだ」と絶賛した国産のマデイラ・ワインが、生まれ故郷でもある山梨県の中央葡萄酒株式会社から「周五郎のヴァン」として販売されている。
・山本はウイスキーも好きであったが、好んだのはサントリーホワイトで、最晩年には角瓶を好んだ。
・山本は人間の心理描写に卓越する反面、人嫌いで人付き合いを極端に制限し、仕事場への訪問客にもめったに面会せず、座談はうまいのに講演は断り、園遊会には出席せず、文学賞と名のつくものはことごとく辞退した。
・山本の生活は規則正しく、51歳から晩年まで自宅から停車場3つ離れた仕事場で自炊していた。午前3時に起床、就寝は午後8時。朝食前に行水をし、後始末に雑巾がけをした。この作業に1時間半ほどかかった。午前10時まで仕事をし、散歩をして午前11時に昼食。ざるそばのつゆに生卵を入れた。午後4時まで仕事をし、夜は原稿をかかず、朝は3時に起きて朝食の準備をした。
・日本酒より洋酒を好み、晩酌を欠かさなかった。夜はかなりの量を食べたが、ご飯はあまり食べず、「ふろあがりののんびりした体に、めしを詰め込んでげっぷをしながらでは、創造的精神ははたらかない」というのが持論であり、米を嫌っていた。編集者のひとりは「先生が亡くなられたら、お米がすごくうまいんです。もうストップをかける人がいないと思うと、つい食がすすみます」と本音を言ったという。