「西郷隆盛」作者、芥川龍之介さんを紹介します!

5月25日(月)12:00公開「西郷隆盛」の作家、芥川龍之介の生涯・格言などを紹介します。幼少のころから家族関係で苦労が絶えなかった芥川龍之介。彼の思想や苦悩が色濃く反映された作品が多いですが、その中でも、「西郷隆盛」はサスペンス仕立てのちょっと変わった作品です。仙台で活動をし始めてから1年、実力派俳優の芝原弘さんが演じます。会場はイタリアンレストランのダ・ジェンナーロ。どうぞお楽しみに!

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年- 1927年)
日本の小説家。本名同じ、号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼。 その作品の多くは短編小説である。また、『芋粥』『藪の中』『地獄変』など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。『蜘蛛の糸』『杜子春』といった児童向けの作品も書いている。

【生涯
1892年、現在の中央区明石町で牛乳屋を営む一家の長男として生まれる。
生後間もなく母が病気になり、現在の墨田区両国の母の実家の芥川家に預けられ、伯母に養育される。11歳のときに母が亡くなり、翌年に母の実兄の養子となる。芥川家は江戸時代に徳川家に仕え、茶の湯を担当していた家柄であり、家中が芸術・演芸を愛好していた。
龍之介は中学での成績が優秀であったため、無試験で第一高等学校(旧制一高)に入学。同期入学には菊池寛や久米正雄らがいた。
1913年に東京帝国大学英文学科へ進学。在学中に菊池寛、久米正雄らと同人誌『新思潮』を刊行。同誌上に処女小説『老年』を発表した。
1915年に代表作『羅生門』を発表。同年、夏目漱石門下に入り、『鼻』が漱石に絶賛される。
1916年に大学を卒業後、海軍機関学校の英語の嘱託教官として教鞭を執る。同時に創作にも励み、短編作品を次々に発表。
1919年に教職を辞して大阪毎日新聞社に入社。出社の義務はなく、創作に専念する。1919年に結婚。1921年に海外視察員として中国を訪問。しかし帰国後次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを病む。作品もこの頃から私小説的な傾向が現れ、晩年の『河童』などへと繋がる。
1926年、病状が悪化し、湯河原で療養。その後、鵠沼の旅館に滞在して妻子を呼び寄せる。
1927年4月、帝国ホテルで心中未遂事件を起こす。そして同年7月、『続西方の人』を書き上げた後、致死量の睡眠薬を飲んで自殺。
 死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設立。日本で最も有名な文学賞として現在まで続いている。

〈菊池寛による弔辞〉
芥川龍之介君よ
君が自ら擇み 自ら決したる死について 我等 何をか云はんや
たゞ我等は 君が死面に 平和なる微光の漂へるを見て 甚だ安心したり
友よ 安らかに眠れ!
君が夫人 賢なれば よく遺兒を養ふに堪ふるべく
我等 亦 微力を致して 君が眠の いやが上に安らかならん事に努むべし
たゞ悲しきは 君去りて 我等が身辺 とみに蕭篠たるを如何せん

                         友人總代 菊池寛

【エピソード】

・夏目漱石の葬儀の際に江口渙とともに受付を務め、弔問にきた森鴎外の名刺を受け取っている。
・師であり自分を見出してくれた夏目漱石を終生尊敬し続けた。いくつかの作品で「先生」という敬称で登場し、遺作である『歯車』『或阿呆の一生』でも言及している。
・大の風呂嫌いで、めったに風呂に入らなかったという。入ったとしても、手ぬぐいは持っていかなかったという。
・大の犬嫌いだったが、晩年、死の直前になってからは、なぜか犬をまったく怖がらなくなった。犬を主人公とする児童文学『白』を雑誌に寄稿したのもこの時期である。

【名言・格言】

・打ちおろすハンマーのリズムを聞け。あのリズムが在する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。
・自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。
・どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え。
・われわれを恋愛から救うものは、理性よりもむしろ多忙である。
・道徳は常に古着である。
・女人は我々男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。
・人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わねば危険である。
・人生の悲劇の第一幕は、親子となったことに始まっている。

                                (出典:Wikipedia 他)