【「仙臺まちなかシアター」解説 岡本かの子さんについて

岡本 かの子(おかもと かのこ、1889年3月1日- 1939年2月18日)

大正、昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。本名カノ。東京府東京市赤坂区(現東京都港区)青山南町生まれ。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。小説家として実質的にデビューをしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。

生い立ち―結婚・出産
代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大貫家の別邸で誕生。16歳の頃、「女子文壇」や「読売新聞文芸欄」などに短歌を投稿し始める。
 19歳の夏、父と共に軽井沢へ避暑、追分の旅館油屋に滞在した。岡本一平と知り合う。21歳の時、結婚。翌年、長男太郎を出産。
 一平は風刺漫画家として人気が出始めるが放蕩がひどく家庭を顧みなかった。芸術家同士の強い個性の衝突による夫婦間の問題の中で長女を出産するが神経衰弱に陥り、精神科に入院することになる。 その後長女は死去。
 翌年退院すると、一平は非を悔い家庭を顧みるようになるが、長女が死去。かの子は一平を愛することができず、かの子の崇拝者であった4歳年下の美しい大学生、堀切茂雄(早稲田大学生)と恋愛し、一平の了解のもと同居するようになる。そして次男を出産するが間もなく死去してしまう。堀切はその後家を出、間もなく結核で死去してしまう。

仏教との出会い
 かの子と一平は宗教に救いを求め、仏教に関するエッセイを発表するようになり、仏教研究家としても知られるようになった。
 1917年、大学生恒松安夫と恋に落ち、再び夫と愛人3人の生活を始める。さらに1923年に医師新田亀三と恋をし、夫と愛人二人との生活は死ぬ一年前まで続く。
1929年(昭和4年)12月から夫と恋人の恒松・新田さらに長男太郎を伴って、ヨーロッパへ外遊。太郎は絵の勉強のためパリに残った。
小説家として活動
 かの子が小説に専心したのは晩年の数年間だった。自宅の一部を「文学界」の編集部として提供し、川端康成、小林秀雄、などの大物を囲い込み、金銭的な援助をして「文学界賞」にあてた。また、自身の小説も評価され始め、パリに残した太郎への愛を、ナルシシズムに支えられた母と子の姿で描いた『母子叙情』、自由と虚無感を描き、当時の批評家に絶賛された『老妓抄』などは代表作となったが、1939年(昭和14年)、創作活動をしていた宿にある若い青年と滞在中に脳溢血で倒れた。その頃には恋人ができた恒松安夫は去っていたが、同居していた新田亀三がかの子を献身的に看病した。2月に入って病勢が急変、東京帝国大学附属病院小石川分院で死去。49歳没。夫と恒松は岡本かの子の身体に防腐剤を注射し、東京中のバラを買い集め、許可を得て二人で穴を掘り買ったバラとともにその棺桶を入れたという。(出典:Wikipedia 他)