【まちなかシアター解説 菊池寛さんについて】

※「仙臺まちなかシアターINおうちdeシアター」♯1「恩讐の彼方に」の作家である、菊池寛さんについてまとめてみました(※出典Wikipedia)。数々の語録を読むと、とてもチャーミングで面白い方だったことが伺えます。

生い立ちなど

大正から昭和にかけて活躍した小説家、劇作家、ジャーナリスト。本名は菊池寛(きくちひろし)。
香川県香川郡高松市七番丁で7人兄弟の四男として生まれる。家が貧しかったため、高等3年の時は教科書を買ってもらえず、友人から教科書を借りて書き写したりもした。中学では記憶力が良く、特に英語が得意で、外国人教師と対等に英会話ができるほどだった。
 卒業後も成績優秀で学費免除で進学するが、テニスや芝居見物ばかりしていて除籍される。その後養子縁組して経済支援を受け、明治大学に入学するが3カ月で退学になったり、第一高等学校入学後も、事件を起こして退学になったりなど、波乱の学生時代を送った。
 1916年に京都帝国大学卒。優れた作品を次々と発表し、人気作家となった。
 1923年には雑誌『文藝春秋』を創刊。大手出版社・文藝春秋社を創設した実業家としても知られ、映画会社・大映の初代社長も務めた。
 代表作は戯曲『父帰る』、小説『真珠夫人』『恩讐の彼方に』『忠直卿行状記』『形』などがある。作品は多く人に知られているが,大正・昭和を通して、「ジャーナリズム」と「映画」という新しいメディアの創出に大きく関わった事実を知らない人も多い。
 第一高等学校の同級生に小説家・芥川龍之介がおり、のちに親友となった芥川の名を冠した「芥川賞」を1935年に創設した。同時に「直木賞」も創設している。また1938年には「菊池寛賞」を制定、一時中断したが菊池寛没後に復活し今に続いている。生まれ故郷の香川県高松市に菊池寛記念館があり、その幅広い功績を知ることができる。

語録

・人生のどんな隅にも、どんなつまらなそうな境遇にも、やっぱり望みはあるのだ。

・悪妻は百年の不作であるという。 しかし、女性にとって、悪夫は百年の飢饉である。

・人への親切、世話は、慰みとしてしたい。義務としては、したくない。

・来世に希望をつなぐ信仰などよりも、現世をよく生きたということが、安心の種になるのではないかと思う。

・ギャンブルは、絶対使っちゃいけない金に手を付けてからが本当の勝負だ。

・とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人といわなければならないだろう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとはいえない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。

「恩讐の彼方に」

 大正8年(1919年)1月に発表された短編小説である。翌1920年(大正9年)、菊池自身の手によって『敵討以上』(かたきうちいじょう)として戯曲化されている。このほか、1932年(昭和7年)には『恩讐の彼方に』と『敵討以上』を組み合わせて改作した短編小説『青洞門物語』も発表されている。

江戸時代後期に、豊前国(大分県)の山国川沿いの耶馬渓にあった交通の難所に、青の洞門を開削した実在の僧である禅海の史実に取材した作品。しかし禅海は、小説の主人公である市九郎(了海)のようにこれを独力で掘り続けたわけではなく、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って掘った。また敵討ちの話も菊池による創作である。