被災地を歩く③

 10月9日(水)、とても風の強い日でした。今回、「ゴッセーノセイ!東北」の本番の前に、もう一か所、どうしても行っておきたいところがありました。

自分の目で、福島第一原子力発電所を見てこようと思っていた。
事故を起こした第一原発は、グーグルマップで検索しても出てこない。自動的に福島第二原発に切り替わってしまう。それもそのはずで、第一原発が所在する双葉町は、ほぼ全域が帰還困難区域だ。どこまで行ったら見えるのかな、といろいろ調べたけれど、分からない。それで、双葉町のお隣、浪江町の仮設商業施設「なみ・まち・まるしぇ」まで、行ってみることにした。仙台から高速を使って1時間30分。浪江の少し手前の、南相馬鹿島サービスエリアでトイレ休憩をする。とてもきれいなサービスエリアで新しい。レストランも売店も充実。相馬の野馬追祭りの展示がたくさんしてあり、観光客らしき人でとても賑わっていた。よい光景だった。

サービスエリアを出て間もなく、左手の山の中を見て、はっとした。山中に大量の黒いごみ袋。
そして反対車線を連なって走る何台ものトラック。ボンネットに「除去土壌等輸送中」と書かれている。間もなく立て看板に、「浪江~二輪バイクの通行禁止」と出てきた。
浪江のインターチェンジで降りる。料金所に係の人がいない。支払いが自動の機械である。
降りて走ると道の両側のあちこちに、立ち入り禁止の文字と、開閉式の鉄柵が並ぶ。
まずは目的地の「なみ・まち・まるしぇ」に向かう。大通りにはお寿司屋さん、酒屋さん、会社のテナントなどが立ち並ぶ。しかし空いている店はほとんどない。ときどき”営業中”ののぼりを見つけ、がんばっている人がいる、と思うとほっとする。車通りは激しく、予想していたよりずっと交通量は多い。大型スーパーやガソリンスタンドも営業している。でも、何かがおかしい。
役場のとなりにある「ひと・まち・まるしぇ」はきれいな仮設商業施設だった。カフェもお土産屋さんも食堂もある。地元の人らしき姿や、作業服のお兄さんたちで11時過ぎにはけっこう賑わっていた。日本酒を二本,購入。

昼食にはまだ早いと思ったので、住宅街を走る。新しい家も古い家も混在している。でも、やっぱり何かがおかしい。そして分かった。人がいないのだ。歩行者が全くいない。散歩している人も、子どもと手を繋いで歩いている人も、庭仕事をしている人も。車を降りてみる。閉まった窓の中でカーテンが外れかけている。傾いたブロック塀、崩れかけた瓦屋根。ここは、時間が止まっている場所なのだ。あの日から、故郷に帰れない人がこんなにたくさんいるのだ。

 

車でそこから500メートルほど走っただろうか。通行止めの標識が出ている。降りてみて、あっと息をのんだ。そうか、と思った。立ち入る事すらできない区域がこんなにすぐ隣にある。この町で暮らすということは、そういうことなのだ。胃が反転するような感じがした。これまで訪れた被災地では感じたことがない、何かどす黒いものが意の中にたまってくるような気がした。この感情は何だろう。

 

 

 

 

 

 その後、請戸漁港へと向かう。津波の被害が甚大だった場所だ。海沿いに遭った請戸小学校の児童と先生は、山に登って全員助かった。先生はいち早く山へ避難するという判断をし、心配して迎えにきた保護者には児童を受け渡しせず、ともに山への避難を促したという。登り口が見つからず困っているところを、「野球の練習で来たことがある」と知らない道に誘導したのは当時4年生の児童だったとか。

港に向かう途中から、再び「何かがおかしい」と感じ始めた。静かなのだ。道を走る。目の前に再建された立派な堤防が見える。ショベルカーなどの重機もあちこちに見える。でも、人が全くいない。工事の音もしない。石巻では重機の音がひっきりなしに響いていた。胃が痛い。何かこみあげてくるものがある。さっきと同じ、何か、どす黒いものだ。

請戸漁港に作られてた簡易の展望台があった。海岸線を挟んで遠くに,鉄塔や建物が集中しているところがみえる。あれが福島第一原発だろうか。

 

最期に請戸小学校を見に行った。ここは震災遺構にするか検討されている,と「ひと・まち・まるしぇ」で見た冊子には掲載されていた。全く直されていないガタガタの道、まだ解体されていないままの家、瓦礫の山。請戸小学校は津波の破壊力の凄まじさを物語っていた。時計はあの時のまま、止まっていた。でも、そこにあるだけだった。震災遺構である仙台市の荒浜小学校は敷地内に事務所が建ち、エレベーターが設置され,震災当時の様子を見られる展示やVTRが見られる。毎日たくさんの人が見学に訪れる。請戸小学校は、時が止まったまま、そこにあるだけだった。「わあ!」と叫び出したいような衝動にかられる。これは一体どういうことなのか?何なのか?

請戸小学校を離れて100メートルくらい走ったとき、分かった。目の前に、黒いビニール袋の山、山、山。少し遠くに目をやると、そこにも、黒いビニール袋の山、山、山。津波でなんにもなくなってしまった場所に、静寂と、黒いビニール袋の山。ああ、そうか、と思った。この国は、この町を見捨てる気なんだな。なかったことにしようとしているんだな。石川裕人さんがブログで語ってように、また、東北をひとつ、切り捨てる気なんだな。

 私は、何だか真っ黒になって、ぐるぐるしたものを抱えて、帰ってきました。夕方息子を児童館に迎えに行き、彼の顔を見た時、何だか涙が出てきました。これから芝居を続ける上で云々とか、そんなことも考えられないくらい、打ちのめされた旅でした。でも、行ってよかった。自分の目で見たこと、持って帰ってきた黒いもの、心の中にとどめておきたいと思います。